togetterの投稿を見て感じたことをツラツラと書いたもの
大学入ってからの無力感がエグい…課題は生成AIに丸投げしたら自分のより出来の良いものがすぐ出るし、生成AIの使い方が上手い友達に時間的にも労力的に成績的にも圧倒されているのがつらい (togetter, 2025/11/11)
特に情報系学部生についてこれは割と深刻に感じられる問題のように思う。
ただ、生成AI が出す成果物が自分が出したものより常に優れているのは、結局「課題」などというものが「類型的(もっと言うと典型的)」なものだからだ。
課題は成果物ではない。個別性が重要な(あるいは真に未知の)問題に対する格闘能力が、大学で得られる成果物だ。AIが実用的になってきて、その感覚をアップデートできない学生は、つまり「(頭が)古い」んだと思う。
短く書けない気がするので、久しぶりにツラツラと書いてみる。
かつて学習は「学ばないと成果物が得られない」から行った。字が書けないと事務仕事はできず、九九を覚えないと帳簿がつけられなかった。「学ぶ」ことで「できるようになる」のは一体で不可分だった。問題解決のためには解法とその遂行技術を学んで適用するしかなかった。
大学で課される課題は「典型的な問題」に対する「解法と遂行技術」を学ぶためのものだった。「課題」を「解いた」結果には意味が無い。教員はその問題の「解」が欲しいから学生に課題として与えているわけではない。解ははじめから分かっている。学生も解が知りたくて課題に取り組むわけではない。課題は練習で、本番、つまり「典型的でなく個別性が高い(あるいは真に未知の)問題」への格闘能力を上げるためのものだ。
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大学は「学びの場」である一方で、その結果を「学位」という「その人の能力を評価することが(能力的にか、コスト的にかで)できない」人のための Certificate を出す認証機関でもある。(そういう社会的役割がある)
そのために「合格」「落第」といった「評価」が必要だが、人間の能力を正確に測るのはかなり困難だ。情報系であれば1時間か2時間ほど議論すればおよそ分かるが、問答法のような教育(と評価)方法は「師匠と弟子」の ST 比(Student 対 Teacher)と時間が必要で、今の私大の学費くらいではまったく無理だ。マス教育では実現できない。
そこで「課題を評価する」あるいは「試験(既知の課題とは違う問い)の回答を評価する」といったことが起きる。課題評価も試験も不正確で不完全なものだから、これはもう認証のための必要悪だ。
すると様々なことが歪む。
「学ぶ」ことより「評価」を重要だと感じる子供ができる。原因の多くは教員が「学ぶ」ことより「評価」を優先するから、また親が子供の「格闘能力」を自分で査定せず、「成績」つまり教員による能力査定を重視するからだろうと思う。
結果、そうして育った子供たちはこの誤った理解を大学入試を過ぎても、二十歳を超えてもアップデートできない。
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それでも、かつて「学ぶ」ことと「できるようになる」ことは一体だったから、そのあたりの認識がおかしくても、「学ばない」で「評価を上げる」ことが困難だったし、そのために得た遂行技術はそれなりに有用だった。なんとなればチートをする、つまり評価者(教員)を欺いて評価値を上げることが(大抵は)可能だが、それは「非人間的・反社会的である」という(あまり根拠のない)倫理観を子供の頃に刷り込むことでガードしていた。
ところがAIの実用度が上がるにつれて「学ぶ」、つまり理解・遂行技術なしに「評価値を上げる」ことに倫理感のない協力者(AI)を使うことができるようになった。なにしろ学生が子供の頃に刷り込まれたのは「友達の答を写さない」「カンニングしない」という「行為(非行)」であって「教員を欺いてはならない」という意味を把握している子供は恐ろしいほどに少ない。(教員を人間だと思っていないから?)
「AI に課題をやらせる」という「行為」はそう刷り込まれなかったから非行感が無いというのはどういうものかと思うが、それを「新たな非行」に加えようとする教員側もまたなんだそれはと思う。
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かつてGoogleが実用的になったときに「ネット検索するな」と言った人たちが多く居たことを覚えているだろうか。いまそんな人は居ない。
重要なのは「学ぶために検索する」ことと「学ぶことをスキップするために検索する」ことの区別が付いているかだ。恐ろしいことに真正面からそう問いかけるとハッとした顔をする学生が多い。学ぶことより評価を重視するあまり、自分の格闘能力があがらない事を安く見積もり過ぎていると思う。そんな子供たちには「検索するな」と言った方がマシだ、という人も出てしまうだろうが、それは「教育」を放棄しているように僕には思える。
AIを「使うな」と言う人たちはGoogleのことを思い出して欲しい。「学ぶためにAIを使う」ことと「学ぶことをスキップするためにAIを使う」ことの違いを認識して欲しい。学生は「AIを使うな」と言われたら「学ぶために使うんだ」と言い返すべきだ。教員は「AIを使うな」と言う前に、AIを通すだけで得られた結果で評価値が上がるような課題を出してはならない。
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大学へは問題解決能力を上げるために来ているはずだが、学生らの前に課題として提示されるのは「あまりにも典型的すぎて現実的でない」問題ばかりで、それを相手にしていては「AIをうまく使う」訓練はできないと思う。典型的部分の類型的対処を探させたらAI「だけ」で済んでしまって人間の出番がない。君らの問題解決能力はミリも上がらないんでは?もっとAIの回答が不十分になるような、一般的でない、個別性が高い問題を扱わないと、と思ってしまう。
ただ、そのような問題には「正解」は無いから単純な評価ができず、課題になりにくい。ゼミのような深掘りを「評価」するには一回生あたりでは専門性や経験が無く、AI に「深掘り」させるような誘導や追求を掛けることも難しかろう。「どうしてそうなるの?」くらいの漠然とした問いで終わりそうだ。
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有名 AI 企業の CEO が「いま私が学生ならAIとうまく対話できるようになることを学ぶ」と言ってる取材ビデオを見た気がする。「非常にうまい質問をすることが出来る人がいる、あのようになるんだ」と。(SNSで流れたので出典不明でFakeかもしれないのでこの程度にしておく)
しかし私の認識では「非常にうまく質問をする人」は、強烈に頭が良いか、あるいは少なくとも一つの分野についてよく経験し、理解しているかのどちらかだ。なにについても深い理解をもたない人が良い質問者となるケースを僕は知らない。(ああ、短いコメントをもらうためだけの散発的な質問は別として、ね。)
つまり僕には「AIと技術的な事項についてよい対話を行う」ためには「自分の知性をフル回転させて考える」ことが必要で、それには「回転させるだけの知性が自分の中に必要」だ、と思える。じゃあその「元になる知性(構造的な理解というもの)」を人はどうやって獲得するのだ?
このことに関して僕にはまだ明確なアイディアがない。
もちろん従来的な高等教育がそれを可能にすることは分かる、というか実証されている。しかしAIの助力を「うまく」受けながら学ぶことで、それが出来るかどうかは僕には分からない。「うまくAIと対話する」ための知性を「うまくAIと対話しながら」得るなんて矛盾してない?(まあコンパイラは自分を再コンパイルして生まれるし、今の人はインターネットを使ってインターネットを学んでるだろうけどね。)
九九(一桁の暗算)を覚えず複数桁の掛け算(筆算)も2,3回するだけ(仕組みを知るだけ)で、あとすべてを電卓でやらせて、本当に「積」の感覚が得られるかどうか、僕には分からない。それ以降の式の展開でもなんでも機械に作業させて、数理的な思考に必要なだけの同種の感覚が獲得できるかどうか、僕には分からない。
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はじめに僕はこう書いた。
課題は成果物ではない。個別性が重要な(あるいは真に未知の)問題に対する格闘能力が、大学で得られる成果物だ。AIが実用的になってきて、その感覚をアップデートできない学生は、つまり「(頭が)古い」んだと思う。
「(AIでも答えられるような)課題のレポートを、各人の理解度の評価材料として十分に使える」時代はもう終わっている。それに気づかず、AIに答えさせて「やった」と思っている学生は、つまり時代に取り残されている。
そのような状況になっているのに気づいていない教員が古いのだと思うかもしれないが、そう言ってみても(俺のせいじゃないと自分を慰める程度の意味しかなく)、自分の問題解決能力が上がらない事実は何も変わらない**。つまり「古い」教員を欺けたと喜んでいる間に、その学生は時代に取り残されていく。
今は「AIとともに学ぶ」フェイズにいることの感覚を学生自身がアップデートすべきタイミングだ。かつての「課題ができた」ことの快感というか、それで喜んでいてはダメだ。教員がAI時代に適応してよく工夫してくれない状況であるほど、自分で自分が正しく学べていることに注意深くなければならない。
その意味でAIは学習を純化したと言える。
そのぶん、学習は簡単じゃ無くなった。学生は(古い自分の)誘惑に負けないようにしないと。
(以上)
補足:Vibe Coding を見ている情報系の学生さん向け。
入力と出力がデジタルデータである領域の類型的な問題解決では、速度などを含めて人間がAIに負けるのは当然だ。だからAIの実用化で真っ先に失職するのは税理士や弁護士だとずいぶん昔から言われているし、プログラミングなんて最たるものだ。(物理面、つまり建築現場なんかの方が後回しになる)
ちょうど先日現場の人から「AI の導入で従来的な新卒プログラマの仕事は無くなった(だからもう雇用する理由が無くなった)」という話を聞いた。まあそうなるだろうなあ。
(そもそも新卒を大量採用するのは日本だけで、海外ではほとんど中途採用だから皆「最初のチャンス」をつかむのに苦労していると聞く。アルバイトやインターンがその入り口だ。日本でそれが起きても不思議でないし、ツールセットやスタイルが世界共通になったソフトウェア・エンジニア領域でそれが最初に起きるのはごく自然と思える。)
どうしたら良いのかは、僕には明確なアイディアがない。
Vibe Coding を試さないわけにはいかない。しかし togetter にあったように無力感を味わいながら、それでも自分を訓練しなければならない。つらい事になりそうだ。それしか言えない。
補足:いわゆる「超人」について
「AIの方がうまくできるなら自分はまだまだ」と思うべきだ、という話がある。これはしかし難しい。
僕の同僚で、脳神経科学領域を見ている人がいる。彼がずっと前から言っている将来像の一つに、こんなのがある。人間はいずれ(コンピュータの)補助脳を付けて暮らすようになり、それが当たり前になる。だからもう記憶しているかどうかを問うような試験は無意味になる。じゃあ試験のときは補助脳を外してくださいと言うことはできるかもしれない。しかしそうした補助脳が技術的に出来た時には、脳に障害がある人が補助脳をつけて日常生活を送っている場合もあるわけで(というかそこから発達しそうな話はある)、すると試験の時は外してください、とはもう言えない。つまり補助脳をつけた状態が「その人」なのであり、これは健常者でも同じだ、と。
これは一部では何年も前から実現しており、例えばパラリンピックでは(カーボンのすごい)義足をつけた人の方が生身(なまみ)の人間より速く走っていたりする。義手、義足、補助脳によって強化された「超人」だが、しかし人間として扱うべきだ、としたら。。
今の AI も近いうちに「日常的な(=典型的な)」事の多くについては一般的な人間よりよほどうまくできるようになると僕は考えている。補助脳的なものにまで発達し、誰もがそれをつけて「普通の人」になるような時には、そうなっているはずだ。つまり「AIの方がうまくできるなら自分はまだまだ」と言える期間は、そう長くない、と僕は思っている。
2025.11.17